数十年昔の話しですが私が高校生の頃はバドミントンのラケットは木製でした。
バドミントンをしていた同級生のラケットを見たことがあって知っていました。
当時は、「あんな物を振るのは重いだろうなぁ」とただ感じているだけでした。
そして時は流れて…(これは「学生街の喫茶店」を意識したのではありません)
中年になった頃に運動不足を解消するために始めた運動がバドミントンでした。
バドミントンに興味があった訳でもなくただ単に運動がしたかっただけでした。
カルチャーセンターの募集講座で時間が合うのがバドミントン講座だけでした。
深く考えずにそんなこんなで始めた運動がバドミントンというだけのことです。
元々が飽きることを知らない私は続けていくうちに面白いことに気付きました。
他競技は先ずパワーが前提となりそれ以外の要素はパワーの上に成り立ちます。
例えばバレーでもテニスでも力士に打ち込まれれば我々はレシーブ不可能です。
しかしバドミントンはパワーをベースとはしないので真に総合力で楽しめます。
パワーがある人のスマッシュでもラケットを弾かれたり折られたりはしません。
パワーオンリーではなくてパワー×スピード×テクニックの総合力で楽しめます。
力3×速2×技1=6に対して同じ数値で力1×速2×技3=6でも対抗出来ます。
私は力も速も技もありませんが総合力で楽しめる面白い球技だと思っています。
パワー駆使の人もスピード駆使の人もテクニック駆使の人も平等に楽しめます。
色々なタイプが居ることでバリエーションが増し面白さも増すものと思います。
この醍醐味は他の球技には無いものであると言っても過言ではないでしょうか。
社会の中で人が不満を持つ理由…それは社会に不公平が存在しているからです。
洋の東西を問わず不公平が積もりだすと世が乱れてきているのが人の歴史です。
不公平が不満を生んで不満が社会を蝕んで蝕まれた社会は崩壊の道を辿ります。
社会と云う表現は大きな単位を指すように思われますが人が集まれば社会です。
地域社会も職場も家族もそしてもちろん実に身近なサークルも社会の一種です。
つまりは安定しているサークルであり続けるには徹底している公平が必要です。
しかし公平の概念が行き渡っても不満を持つ人は簡単にはゼロにはなりません。
皆なと公平に相応の負担を分かち合うことを嫌う人が世の中には居るからです。
そういう人達は自分だけは他の人より楽したいと常に考えて立ち回っています。
でもそういう人とメンバーとして共にやっていけるかどうか考えてみて下さい。
個人であれショップであれ自分の都合しか考えない人とは我々は相容れません。
だから立ち回る人が居辛くなる様に常に公平なサークルであり続けていきます。
メンバーとは都合のいい人ではなくて共に楽しむ仲間であるとの認識ですから。
「二八の法則」集団の本質を表すこの言葉は皆なもよく耳にすることでしょう。
組織や団体などにおいて二割の人がプラスになる人で八割がそれ以外の人です。
「それ以外」には当然のことながら普通の人とマイナスになる人が含まれます。
だから「二八の法則」は正確には「二六二の法則」と呼ばれることもあります。
二割が有益な人、六割が普通の人、二割が有害な人、という統計の色分けです。
それならば下部二割を切り捨てれば万事OKだと思うのが不通の考えでしょう。
でも下部二割を切り捨てれば残り八割からまた下部二割が生じると言われます。
下部二割も必要悪としての存在意義があり排除してはいけないと云う論理です。
現実は確かにそうかもしれませんが私にとってはどうも受け入れ難い論理です。
「二六二」ではなく「十零零」にしたいと考えるのは虫のいい話しでしょうか。
会社であれサークルであれ組織というものは人が生き生きとしているべきです。
そう考えるのはやはり綺麗事を言っていると言われるのが関の山でしょうかね。
統計の論理を根本から壊す集団があってもいいのではないかと私は考えますが。
年配になっても未婚のままでいる人は人生の負け組と周りから言われがちです。
しかし未婚者を結婚出来ない人と決めつけてしまう安易さはいかがでしょうか。
結婚できないのではなくて結婚しないという選択肢を選んだのかもしれません。
また借金を抱えたままで生活を送れば人生の負け組と周りからよく言われます。
借金のスパイラルならいざ知らず今後を見据えて前向きの借金もあるでしょう。
結局のところ何を以って勝ち組と負け組に色分けするのが適切なのでしょうか。
基準点は自分らしく生きているかどうかに尽きるのではないかと私は考えます。
更に言わせて貰えばそもそも人生にそんな色分けが必要なのか大きな疑問です。
バドミントンが好きであればバドミントンを楽しむことが出来ればいいのです。
色々な考え方がありますがそれが人生の勝ち組なのではないかと私は思います。
バドミントンが好きなのに楽しめていないのなら少なくともそれは負け組です。
バドミントンが好きでないと言うのであればもちろんこの話しは違いますがね。
ゆとり世代の若者とは本当にゆとりなのだろうかと疑問に感じる時があります。
一般に社会人になればスケジュールを決めてそれに基づいて行動するものです。
もちろんスケジュール通りにならない支障が起きることも珍しくはありません。
しかしスケジュールを立てる行為は生活において基本中の基本となるものです。
そんな基本が出来ない人がゆとり世代に多く見られるのは気のせいでしょうか。
私の気のせいならいいのですがゆとりと行き当たりばったりとは違うはずです。
そういう人達が無計画にて人生を無駄にすることが無い様に希望しております。
とはマッカーサーの有名な言葉ですが去る前にきちんとしておきたいものです。
年齢などを考えると私のバドミントンライフもそう長くはないかもしれません。
何事においても「立つ鳥は跡を濁さず」の精神を持っていなくてはいけません。
発つのもそれなりにエネルギーが要りますが私は発つことが出来るでしょうか。